こんにちは。
HAJIMEです。
今回は、昨年末に起きた出来事について、振り返ってみた事を書いていきたいと思います。
まず、振り返ってみて思った事として、昨年の11月末頃、私はいつも利用している寝具店で「ギャベ」を購入していた事を思い出しました。
ギャベを購入したのも、古いカーペットを買い替える為だったのですが、当時はリビングのカーペットに座って、明け方のお祈りをしておりました。
ヘタったカーペットに座っぱなしだとお尻が痛くなりますので、買い替えたギャベならお尻が痛くならないだろうと思い、明け方のお祈りを楽しみにしていたのですが、実はギャベを購入した当日の御言葉で、「明け方祈りを寝て過ごす位なら、歩きながらでも祈りなさい」という御言葉が宣布されました。
新しく購入したギャベで祈ろうと思ったのも束の間、御言葉の通りに外に出て、歩きながら祈る事になりました。
御言葉に出会うまで、まともに祈るという行為をした事が無かった為、座って祈るのが当たり前かの様な考えに固執しまっておりました。
明け方は、神様と対話する貴重な限られた時間です。
そして、神様はこの地上世界の全てを創造された創造主であり、王の王、主の主です。
ですから、王の御前で寝てしまう訳には参りません。
しかし、座ったまま祈っていると、どうしても眠気に襲われてしまい、気付いたら寝てしまうといった状況が続いておりました。
ですが、歩きながら祈る事で、寝てしまうといった状況を回避する事が出来ます。
11月の末頃は冬になりますので、特に明け方は冷え込みます。
寒い中ではありましたが、外に出て歩きながら祈る様になりました。
最初は、自宅近辺の大きな公園の池を周りながら歩いてお祈りしようと考えたのですが、その公園に着いてすぐに、頭がボーッとする感覚になり、まともに祈れないと感じましたので、すぐに自宅に戻り、車で近くの山の中腹にある駐車場に移動しました。
最初は車の中で祈ろうかとも思いましたが、座ったままお祈りして、お祈り中に寝てしまっては意味がありませんので、御言葉の通りに歩いてお祈りしました。
駐車場はそこまで広くない為、駐車場内をグルグル周りながら歩いては、お祈りしました。
これまで外に出てお祈りした事が有りませんでしたので、新鮮な気持ちだったからか、いつも以上にお祈りする事が出来た記憶があります。
その後は、その山の駐車場でお祈りをする様になりました。
しかし、金曜日や土曜日といった週末になると、夜更かししている若者たちが来る為、集中出来ないと思いましたので、他にも歩きながらお祈り出来る場所はないかと探す様になりました。
なるべく人が来ない所で、歩きながら集中してお祈り出来る場所を探す為、地元の田んぼ地帯を歩いたり、いつも行く山に向かう林道を歩いてみたりと、色々と試しました。
最終的には、月明かりで歩く道が薄っすら見える見通しの良い田んぼ地帯を歩いて祈るのが、最も最適だと感じましたので、その後は田んぼ地帯を歩いて祈る様になりました。
田んぼ地帯は見通しが良く、月や星も良く見えます。
特に冬は空気が澄んでおり、より一層綺麗に見えます。
田んぼ地帯を歩いてお祈りしていると、流れ星を見る事が3回有りました。
インスタグラムでの投稿を見返すと、昨年の12月6日に1回と、今年の1月1日に2回の計3回流れ星を見ています。
流れ星を見る機会は、大人になってからはほぼありません。
12月6日に見た流れ星は、一筋の綺麗な流れ星で、とても感動したのを覚えています。
1月1日には、テニスボール大ほどの大きさの流れ星を見て、驚きの余り歩くのを止めた程だったと、自身のインスタグラムに書いてあります。(もちろん覚えています。)
今まで流れ星を見る機会はほぼ無かった訳ですから、テニスボール大の流れ星を見たら驚きますよね。
しかも、その日の内に2回も流れ星を見るとは思いもよりません。
ましてや、年の始まりである1月1日にです。
これが偶然だと思いますか?
もう偶然ではなくて、神様が私に見せて下さったんだと思うしかありません。
ですから、もっと頑張ろうと思って明け方の祈りを熱心にする様になりました。
その反面、次第に思い上がる様になり、傲慢、高慢になっていきました。
まだこの頃は、神様の裁きにあっていません。
ですから、どんどん付けあがっては傲慢、高慢になっていく一方でした。
また、1月1日を迎える前に、私は聖地東京都庁に足を運ばせて頂きました。
本来であれば、なかなか解決出来ない問題や、新たな構想を受けたりする時に行かなければならない所を、まだその様な霊感、構想も受けられていない状態で東京に足を運んでしまっておりました。
その結果、自身の弱点と欠点が顕わとなり、本当の姉妹の方にもご迷惑をお掛けしてしまう事にもなりました。
御言葉からずれた状態で聖地に足を運んでも、自身の弱点と欠点が顕わとなり、結果裁かれて終わってしまいます。
また、東京から帰る際には、「靴」を買って帰りました。
「ゴルフシューズ」と「トレッキングシューズ」になりますが、私の場合は東京でしか買えなかったというのも、東京に行った理由の一つです。
実は、以前使用していたトレッキングシューズのソールが剥げてしまい、登山中に滑って転んでしまった為、買い替えようとした所、地元でいつも買うお店に行ってもサイズが無かった為、東京で買わざるを得ませんでした。
(私の足は実測で約30cmですので、靴は31~32cmでないとほぼ入りません。)
怖いもの知らずで東京に行ったのも、思い上がっていたからに他なりませんが、今思えば、東京に行こうとしたきっかけになったのが「靴」でした。
ですから、聖地東京へ足を運ぶ理由としては、御言葉からずれていた事になります。
つまり、二心の罪を犯してしまっていた事になります。
なお、東京で購入したトレッキングシューズがかなり摩耗してきましたので、もう少し摩耗が酷くなったら購入しようかと考えていますが、メーカーとサイズを購入したお店に電話で相談する事で、東京に直接行かなくても購入出来る段取りが整っています。
ですから、今後はきちんと御言葉通りに従って、聖地東京に足を運ばせて頂きます。
そして、インスタグラムでも投稿していますが、1月17日にまるで天国にいるかの様な一日を過ごした後、1月18日の明け方に、突如として地獄に転落しました。
神様の裁きです。
天国から地獄に転落したと、明らかに分かりました。
天国にいる様な生を過ごしていた時は、とても心地よく、とても暖かい空気に包まれているかの様で、心穏やかな時を過ごす事が出来ていました。
しかし、その恵みが一瞬にして消え去ったのです。
徐々にではなく、一瞬です。
その一瞬は、新聞配達のカブとすれ違った時に起こりました。
まるで、その新聞配達の方に全ての恵みを持って行かれたかの様に、一瞬にして消え去りました。
今でも鮮明に覚えています。
その時は、何が起きたのか一瞬分かりませんでしたが、もしかして神様から見捨てられたのではないかと考える様になりました。
正に、天国から地獄へと突き落とされた事を意味しています。
そして、とても心地よく、心穏やかに過ごしていたのとは対象的に、心に不安と心配と悩みが押し寄せ、手足が急激に冷え込み、常に心が落ち着かない様な状況に陥りました。
心の中が地獄になり、顔も青白く、常に疲労困憊の様な状況で、身体にも力が入らなくなりました。
この様に、天国の様な状況から一瞬にして地獄の様な状況に陥った訳ですから、神様からの裁きである事は明白です。
そして、神様から裁かれるという事は、御言葉に従えていない事があるという事になります。
とにかく、思いつく限りの罪を一日中悔い改め続けました。
この様な状況が1月18日~1月20日の3日間続きました。
この裁きの期間中に私の顔を見た妻が「大丈夫?」と、心配する程でした。
ですから、相当疲労困憊し、やつれ果てた顔をしていたのだと思います。
心が常に不安、心配、悩みの極限状況だった訳ですから、当然の事です。
そして、1月20日の明け方のお祈りをした後に、車の中で賛美しながら帰宅している時に、神様が捨てるべきものを教えて下さいました。
それが、「妻」です。
私はその霊感を受けた時、直ぐに「捨てる」決断をしました。
「捨てる」と聞くと、聞こえが悪いかもしれませんが、神様が捨てなさいと仰るのは、それがあなたにとって信仰のアキレス腱であり、サタンに付け入る隙を与える事になり、結果的にサタンの攻撃にやられ、信仰が破綻してしまうからに他なりません。
ですから、現実に妻をどこかへポイ捨てする訳ではなく、神様を最優先にしなさいという事なのです。
普段の状態で、「妻を捨てなさい」との霊感を受けたとしても、きっと私は受け入れられなかったものと思います。
ですから、私の信仰をより強くする為に、まずは信仰の障害となってしまう妻を捨てさせる決断が出来る様にお導き下さったのです、
天国と地獄の両方を経験し、明らかに神様からの裁きを分かる様に裁きをして下さった事で、天国の道に行くか、地獄の道に行くかの選択を迫る様にして下さったのです。
そして、地獄にいた私の目の前に、「妻を捨てる」という天国への切符が示された訳です。
その様な状況に陥った私は、迷う事なく天国への切符を選択をしました。
そして、その後は御言葉に従順になれていない所を探す為に、2016年10月の御言葉を復習しました。
私の答えは、そこにありました。
つまり、私は最初の段階から御言葉の通りに従う事が出来ていなかったのです。
そして、この事を気付かせて下さる様にお導き下さった神様の深い愛にとても感動し、涙が溢れて止まりませんでした。
ここまでの事は、こちらの記事にも書かさせて頂いております。
自身の信仰がずれている事に気付いた私は、きちんと御言葉の通りに従おうと、再スタートを切りました。
ずれていた部分もしっかりと意識してお祈りする様になり、明け方の歩き祈りも継続していました。
大体8~10km前後を毎日歩いてお祈りしておりましたが、徐々に足腰に負担がかかる様になり、ストレッチしたりして痛みをごまかしながら、歩き祈りをする様になっていきました。
そして、いつも通りに明け方歩きながらお祈りしていると、突然、くしゃみと鼻水が止まらなくなり、お祈りをする所ではなくなってしまいました。
くしゃみと鼻水が止まらなくなってしまったのは、ケムトレイル(あか剤)が原因です。
ケムトレイルを撒かれてしまい、くしゃみと鼻水が止まらない状態ではお祈りが出来ない為、歩きながらのお祈りを断念せざるを得ませんでした。
そう考えた時に、信仰を持つ前に買ったエアロバイクがあるのを思い出しました。
歩き祈りが駄目なら、エアロバイクを漕ぎらながらお祈りすればいいんじゃんないかと思い、バイクにまたがった瞬間、聖霊を感じました。
イルミナティが、歩き祈りを妨害しようとしてケムトレイルを撒いた訳ですが、神様は既にそれを見越して、私にエアロバイクを購入させていたのです。
私が購入していたエアロバイクがこちらです。
ハイガー産業のスピンバイクになりますが、耐荷重が120kgと、当時の私の体重で耐えきれる物は、ハイガー産業の製品しかありませんでした。
イルミナティの妨害にあっても、その妨害を見越して神様が事前に備えていて下さったのです。
その為、くしゃみと鼻水が止まらなくなって歩き祈りが出来なくなった訳ですが、その代わりに、室内で自転車を漕ぎながらお祈りする様になりました。
そして、これまで歩いている中で足腰を痛めておりましたが、自転車を漕ぐ事で足腰への負担が軽減し、足腰の痛みも無くなりました。
その代わりに、サドルとペダルが競技用の為か、サドルは小さく、ペダルにはギザギザが着いており、そのまま使用するとお尻と足の裏が痛くなりました。
その為、サドルにはクッションを重ねて使用し、ペダルは素足でも痛くないペダルへと交換しました。
ここまでの事は、こちらの記事でも書かさせて頂いております。
(ペダルについては、下記リンクの記事を書いたかなり後に交換した為、交換するまでは靴を履いて漕いでいました。)
なお、今現在も毎日自転車を漕ぎながらお祈りしています。
その結果、痩せて細くなっただけの足に筋肉がついて、足が少し太くなりました。
また、自転車を漕ぎながらお祈りし始めた当初は、自転車を漕ぎながらも途中で意識を失いかける事が何度もありました。
自転車から落ちそうな位に意識を失う事がありました。
自転車を漕ぎながら寝る事は、普通に考えて異常です。
しかし、その位にサタンの攻撃による睡魔は強烈なのです。
また、連休の際は寝ずに明け方をフルでお祈りしようとすると、その時に限って頭が全く回転せず、お祈りする言葉が全く出て来ないという事が何度もありました。
当時は、何でお祈りの言葉が出て来ないのか、その原因が良く分かっていませんでした。
今思えば、サタンが私に入り込んで、明け方のお祈りを妨害していたものと思われます。
本当に自分でもどうしたのかと言う位に思考が停止し、気付けば2時間~3時間過ぎてしまっていた事もありました。
気付かない様にサタンが忍び込んでは妨害してくる為、これまでは原因が不明だとばかり思っていました。
また、御言葉に従おうと努力している義人に対して、神様が明け方のお祈りを妨げる事をするはずがありません。
(仮にあったとしても、神様の深い御心(お導き等)があっての事です。)
ですから、明け方のお祈りを妨げる様な事があれば、それはサタンです。
最近は、お祈りを止める様な攻撃ではなく、間違えた構想を受け取らせようとする攻撃に切り替えて来ている様に感じます。
そう感じた時には、すぐにサタンの裁きと滅びを祈る様にして、対処する様にしています。
この様にして、神様と神様の御言葉と聖書だけを頼りにして、一人で信仰を守ってきました。
御言葉を学び始めた当初は、世の中の考えと真逆である為、世の人々との接し方がよく分からず、どうしたら良いのか分からない事が多々ありました。
一人で信仰を守っていましたので、誰にも相談は出来ない訳ですから、神様に頼るしか方法はありません。
そして、物事を判断する判断基準は御言葉しかありません。
御言葉を基準に全てを考えなければなりません。
つまり、世の人々と接する中で、御言葉に従えない事が発生した場合には、その付き合いは捨てるべきと言えます。
付き合いというのも人それぞれで事情が違うかと思いますが、神様の為にならない時間は全て無駄です。
ですから、神様の為に時間を使えないと感じた事については、捨てるべき事ではないかと考え、行動しなければなりません。
しかし、私たち人間には肉体がある以上、生活上でどうしても捨てきれないものが出てきます。
例えば、生活費を稼ぐ為の仕事、生活に必要な食料品や日用品の買い物などは避けられません。
私は、毎日ブログの記事を更新しようとしていますので、生活費を稼ぐ為に仕事をする時間が無駄です。
その為、その日にUPする記事を優先して書き上げ、仕事の時間は最低限にして、仕事そのものを後回しする様にしています。
また、買い物につきましても、山登りの帰りに買い物を済ませる等、なるべく効率良く時間を使う様にしています。
山登りについては、祈りながら登っていますので、お祈りと肉体の健康管理に繋がります。
歩きながらお祈りしていたのも、登山しながらお祈り出来る様にする為だったのかもしれません。
最近悟った事ですが、休日にブログ記事を書き始めようとすると、書き始めた途端に眠気に襲われた為、気分転換に山登りに行きました。
その山登りは祈りながら行っている事ですので、神様の為に時間を使う事が出来ていますし、運動して酸素をたくさん吸う事で脳の力をより引き出す事が出来ます。
そして、頂上付近にたどり着いた時に、ブログを書き始めた途端に眠気が来たのを思い返しました。
そこで気付いたのですが、祈る事で神様の権威と権能を授かり、その上で御心を成す事で、神様の権威と権能が世に臨むのだと言う事を悟る事が出来ました。
つまり、記事を書く前に、山登りを通して祈る事で、私の記事に神様の権威と権能が臨む事になるという事になります。
だからこそ、記事を書き始めた途端に眠気に襲われ、山登りに行く様にお導き下さったのだという事が分かりました。
その様に悟った事で、その後のお祈りに、より力が入る様になったのは言うまでもありません。
ですから、私の場合は山登りを捨てるべきではないという事になります。
人それぞれの生活環境が違う訳ですから、人によって捨てるべきもの、捨てるべきでないものは様々です。
明らかに捨てるべきものはさっさと捨てれば良いのですが、判断が付かない場合もあるかと思います。
その場合は、回数を重ねていく事で、次第に心が苦しくなったり、捨てた方が良いのではないかと思える事が起きたりします。
私の場合は、お気に入りのパン屋さんが、正にそうなりました。(詳細は下記リンクをご覧ください。)
この様に、神様は捨てるべきものと捨てるべきでないものを、分かる様に教えて下さいます。
明らかに捨てるべきものは捨て、判断が付かないものに関しては、お祈りしながら様子を見ていく事で、様々な形で教えて下さいます。
そして、神様が教えて下さった時に、神様の心情を悟って神様の為に捨てる決断をしなければなりません。
ですから、常日頃から心の中では捨てる覚悟をしておく事が肝要です。
でなければ、神様が捨てなさいとせっかく教えて下さっているのに、捨てる決断が出来ずにいては、神様の心情を痛めてしまう事になります。
私は、神様から霊感・構想を受けてブログを書き始めてから、約4ヶ月程経過しました。
毎日必死に書きました。
途中で霊的にも肉体的にも体調不良に陥り、倒れてしまいましたが、神様が与えて下さった霊感を絶対に無駄に出来ないという思いで、毎日必死に書いています。
神様から霊感を受け始めた頃は、良く分からなかった訳ですが、段々と分かる様になってきては、毎日記事にしないと絶対に後悔する事になると思い、記事を書き始めました。
もし、明日死んだとした場合に、神様からの霊感を受けていながら記事に出来なかったとしたら、私は絶対に後悔が残ると思うからこそ、毎日後悔の無い人生にしようと努力してきました。
自分が原因で記事に出来ないという事だけは、絶対に避けようと、努力してきました。
この約4ヶ月間で倒れたのは、1日だけです。
そして、毎日その様に生きてきた事で、今回の記事を書くにあたり昨年末から振り返ってみた訳ですが、昨年末の出来事が2~3年前位の出来事の様に感じ、まだ1年すらも経過していなかった事に、思わず驚きました。
今まで世の仕事をしていた時は、気付けばあっという間に1年が過ぎ、何の実りも無い生活を過ごしていました。
しかし、今年の6月6日から毎日記事を書く様になってからは、同じ時間を過ごしている訳ですが、その内容や密度も全くの別物です。
その反面、1日があっという間に終わってしまいます。
ですから、とても不思議な感覚です。
そして、この事は聖書にも以下の様に書かれています。
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
ペトロの手紙二 3章 8節
神様は、1日がまるで1000年のようで、1000年はまるで1日のような時を過ごされていらっしゃいます。
ですから、私たち人間とも比べようも無い程に、濃密な時を過ごされていらっしゃるのです。
その様に濃密な時を過ごされていらっしゃる神様の凄さと言ったら、半端ではありません。
ですから、私たち人間は神様の足元にも及びません。
しかし、御言葉にどこまでも従順に従い、毎日努力し続けていく事で、私たち人間は神様の様に完全な者になれると仰って下さっているのです。
ですから、どの次元(レベル)に行けるかは、個人個人の努力次第で変わってくる事になります。
完全を目指して努力し続ける事で、完全に近付いていく事が出来るのです。
中途半端にやったら、中途半端で終わります。
やった通りになります。
全ては条件代価です。
つまり、完全になる条件を立てる事で、完全になれるという事にもなります。
完全になる条件は、人間が死ぬまでに立て続けてこそ、立てられる程の条件なのです。
ですから、中途半端にやっていては、絶対に完全になる事は出来ません。
100%の祈りと100%の努力をする事で、人間は初めて完全になれるのです。
そして、昇りつめていく次元に限界は無いとも仰って下さっているのです。
ですから、若い世代の方が、若い内に信仰を持って実践していくならば、それだけ、より高い次元に昇りつめていく事が出来るのです。
だからこそ、力を出し惜しむ事なく、全力で条件を立てていけば良いのです。
先程、捨てるべきものの話をさせて頂きました。
本日会社に出勤し、会社内の人間関係の全てを断ち切っても良いと思える程に許せない事が、自身の身に発生しました。
先日の記事で、会社を辞めなければならないという考えに至る出来事があった事を書かさせて頂きました。(詳細は下記リンクをご覧ください。)
神様にお祈りしていたとも書かさせて頂きましたが、本日その答えとなる出来事がありました。
つまり、仕事を捨てなさいと神様が仰って下さっている事になります。
兼ねてより、いつでも辞める覚悟は心の中でありましたが、その反面、辞めるにあたってお世話になっている方にご迷惑をかけてしまう事が唯一、心の中で引っ掛かっていました。
神様はその事もご存知の上で、その人間関係すらも断ち切って決断出来る様にお導き下さいました。
この記事を書いている今、退職する決断をしておりますが、間違いがあってはいけませんので、明日の明け方のお祈りの後に、最終決断をさせて頂きます。
捨てるという事は、人によっては怖く思ったり、心苦しくなる事もあるかと思います。
ですが、神様が捨てなさいと仰る時は、言い換えれば準備が整った事の証でもあるのです。
私の場合、仕事を捨てるという事は、生活費が稼げなくなる事に繋がります。
普通に考えたら生活が出来なくなる様に思いますが、そうではありません。
言い換えれば、私が今の仕事を捨てても、他の方法で生活費を稼ぐ準備が出来たという事でもあるのです。
とは言っても、私が仕事を辞めた後、どうなるのかは分かりません。
神様だけがご存知です。
でも、私には不安、心配はありません。
何故なら、アブラハムも同様に故郷を捨て、神様の仰る土地へと旅立っているのです。
聖書には以下の様に書かれています。
ーーーーーーーーーーーーーーー創世記12章1節~4節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「アブラム」は、後の「アブラハム」です。
ご覧の通り、アブラハムは神様が仰った通りに従って旅立っています。
75歳という年齢で故郷を捨て、見知らぬ土地に行く事は誰でも不安や心配になる事と思います。
でも、アブラハムは神様の御言葉信じて従ったのです。
そして、祝福を受けているのです。
ですから、神様が捨てなさいと仰る時は、義人にとって祝福でもあるのです。
私もアブラハムの様に信じて行動するだけです。
それに、今の生活そのものが変わる訳ではありません。
ただ会社に行かなくて良くなる訳ですから、その分の時間を全て神様の為に使う事が出来ます。
私にとって、神様の為に時間をより長く使える事は、祝福に等しいです。
逆を言えば、会社を辞めた後の方が忙しくなると予想しています。
会社を辞めて、ただのんびりと時を過ごす訳ではありません。
もっと神様の為に生きて、神様の御心をどこまでも大きく壮大に成していける者となれます様に、これからも引き続き努力して参ります。
最後に、冒頭で古いカーペットを買い替える為に「ギャベ」を購入したとお話をさせて頂きましたが、この「ギャベ」にも神様からの愛のメッセージが込められていました。
実は、私が購入した「ギャベ」は、当初購入するつもりがありませんでした。
ギャベが好きな方はご存知かと思いますが、本物のギャベはとても高価です。
いつも利用している寝具店にて、ギャベのイベントがあるとの事で、カーペットの買い替えにギャベも良いのではないかと思い、そのイベントに顔を出す事にしました。
しかし、値段を見たらどれも高額で、とてもではないですが即断即決出来る様な金額ではありませんでした。
そんな中、私が購入しようと考えていた2畳半程度の大きさのギャベの中に、私も妻も気に入るとてもシンプルなギャベがありました。
実際に見て触って良いなぁと思ったのも束の間、値段(定価)を見てビックリします。
予算的に定価ではとても購入出来る金額では無かった為、値引きをしてくれました。
記憶の限りですが、定価は約80万の税抜だったと思います。
(税込か税抜か、はっきりと覚えていません。)
一度目の値引きも当然の事ながら買えない為、首を横に振ります。
そして、更に値引きという事で、母の寝具購入時にお世話になった店長が来られました。
私が母の寝具購入時に値引き交渉をした為か、その交渉を見越して金額を用意してくれていました。
その金額が65万の税込です。
でも、それでも買えないと思った私は首を横に振ります。
すると、お店側は金利手数料無料のローンの話を持ち掛けて来ました。
ローンをしてまで購入する物は必要の無い物です。
そして、ローンだけでも罪ですが、金利手数料無料というのはサタンの甘い罠です。
2回から3回程、ローンを勧められましたが、ローンで購入する事は無いとはっきりと断りました。
すると、店長がギャベの仕入業者と話をし、更に値引いた金額を提示してくれました。
その金額が55万の税込です。
私は定価を見た時から50万以上なら買わないと決めていたので、この5万を出すか出さないかで迷いました。
そこで、店長に50万の税込で再度値引き交渉をしました。
すると、店長も値段の経緯を教えて下さり、これ以上はどうにも無理ですとお話して下さいました。
そして、私が5万を出すか、出すまいか数分程考えあぐねていると、それを見かねた店長が謎の一言を発します。
店長「じゃあ、5万円僕が持ちます。」と、仰ったのです。
私は一瞬耳を疑いましたが、店長は本気の様で、結果的に私は50万の税込みでギャベを購入しました。
この一連の流れは、普通に考えたら有り得ません。
私は、会社でもプライベートでも値引き交渉を何度も行ってきましたが、この様な事は後にも先にも今回が初めての事です。
ですから、私はこんな高価な物を購入しても良かったのかと思う反面、この様な事は神様が働いて下さったとしか思えない出来事でもある為、今日に至るまで私がギャベを購入する意味が良く分かりっていませんでした。
しかし、今回の記事を書くにあたって、ようやくその意味が分かりました。
まず、ギャベというのは、羊の毛で出来ています。(冒頭の画像をご参照ください。)
羊の毛を手で編んだ物がギャベです。
つまり、羊です。
そして、私が購入したギャベは、ギャベの中でも珍しく羊の毛そのままの色だったのです。
ギャベの大半は染色されています。
ですから、仕入業者の方も「このタイプの物は滅多に出て来ないです」と、仰っていました。
そして、室内で自転車を漕ぎながらお祈りする様になった時に、目の前に敷いてあるギャベを見て思いました。
「神様は、私にギャベを何で与えて下さったのだろうか?」と、心の中で思いました。
すると、ギャベが羊の毛である事が頭の中に浮かび、「羊になりなさい」という神様のメッセージが込められていると悟りました。
そして、ギャベを購入した経緯については、あまり外部の人には話さない様にしていました。
インスタグラムでも投稿していますが、ギャベについては触れていません。
単純に自慢話になってしまうと思い、ギャベを買ったという事すらも言わない様にしてきました。
しかし、その様にしていたのも意味がある事だったのです。
まず、今回の記事を書くにあたり、ギャベの事を書かなければならないと思いました。
それは、神様を証する為です。
ですから、購入に至るまでをありのままに書かさせて頂きました。
私が50万なら買うという心をご覧になり、店長の心を動かして50万の税込で、神様が与えて下さったのです。
神様が与えて下さった物にも、使うべき時があるという事をも、今回の記事を通して教えて下さいました。
そして、先程も申し上げました通り、ギャベは羊の毛で出来ています。
つまり、羊です。
神様は、「羊」と「山羊」という言葉を、御言葉の中でよく使われます。
「羊」は、御言葉に従順に従う者の事を指します。
「山羊」は、御言葉に不従順な者の事を指します。
つまり、「羊」は「義人」で、「山羊」は「サタン」です。
そして、神様は御言葉を通して「羊」と「山羊」とに分けられます。
「羊」には祝福があり、「山羊」には裁きがあります。
神様の御言葉にどこまでも従順に従ってこそ「羊」と見なされ、祝福されます。
反対に、御言葉に不従順な者は「山羊」と見なされ、裁かれます。
そして、神様は私たち義人に祝福を豊かに与えたい御方です。
また、祝福を出し惜しみされる様な御方ではありません。
ですから、多くの人が「羊」となる事で、神様から豊かに祝福を受けられるのです。
今回、ギャベを通して「羊になりなさい」というメッセージを教えて下さったのも、私たち義人に祝福を豊かに与えたいという神様の愛なのです。
そして、ギャベの事を外部にあまり言って来なかったのも、もう一つ理由があります。
それは、「羊になりなさい」という神様の愛のメッセージを、私の記事を読んで下さっている方の中で、最近御言葉を学び始められている兄弟姉妹の皆様方に向けてのメッセージでもあったからなのです。
コロナパンデミック、コロナワクチンを通じてイルミナティの存在を知り、神様の存在を確信され、RAPTブログ有料記事を購入し、最近になって御言葉を学び始めた兄弟姉妹の皆様方へ、きっと今、必死になって御言葉を学んでは、御言葉の通りに生きようと熱心に努力されていらっしゃるかと存じます。
必死になっているのも、自分自身が「後の者」だという自覚があるからではないでしょうか?
私も、後の者でしたので、その気持ちはすごく良く分かります。
しかし、私はそれ故に焦りの気持ちが生じ、結果的に最初から信仰がずれているという愚を犯しました。
愚を犯すだけでなく、兄弟姉妹の皆様方にもご迷惑をお掛けしてしまったのです。
ですから、決して焦ってはいけません。
私の経験談からも一目瞭然ですが、焦っても良い事は一つもありません。
私は焦った事によって、2016年10月有料記事の御言葉を軽んずる事になり、最初からズレた信仰生活を送る事になってしまいました。
この様な愚を犯すのは、私だけで充分です。
そして、私はこの愚を犯した事によって、兄弟姉妹の皆様方のお役に立てている事もまた、神様の成せる業ですし、私にとっては喜びです。
何故なら、この記事を通して、焦り故に山羊の道へ行ってしまう方を、羊の道へと戻す事が出来れば、神様が喜んでくださいますし、私も嬉しいです。
この記事をご覧になっている方の中で、心に焦りの気持ちがある方は、私と同じ過ちを犯してしまっている可能性が高いと考えられます。
ですから、今一度2016年10月の御言葉を学び直し、過ちに気付いて下さいます事を心から願っています。
神様は、皆様方が後の者である事を十分にご存知です。
御言葉にどこまでも従順に従う事で、義人の一人ひとりが真に幸せに生きられる人生へと導いてくださいます。
ですから、決して焦る必要が無いのです。
神様は祝福を豊かに与えたい御方です。
しかし、御言葉に従っていない限り、祝福を与えたくても与えられないのです。
神様から祝福を受けたくない人はいません。
誰でも神様から祝福を受けたいと思っているはずです。
ですから、御言葉の通りに従順に生きて、神様から「羊」と見なされる者となってください。
神様は御言葉に従おうと努力し続けていらっしゃる方の事を、決して見捨てたりはしません。
どうか、心頑なになる事なく、御言葉の通りにどこまでも従順に従って、神様からの祝福を受けられる「羊」になってくださいます事を心から願っています。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
HAJIME