スティーブン・スピルバーグ監督映画「激突」は、あおり運転を予告していた可能性大。あおり運転も「罪」に該当します。

こんにちは。

HAJIMEです。

今回は、スティーブン・スピルバーグ監督(以下:スピルバーグ)の映画「激突」について、書いていきたいと思います。

この映画は、1973年1月に公開されている映画です。

その映画がこちらです。

私が生まれる前の時代の映画ですので、全く知らなかったのですが、内容を見てみますと、正に車の運転におけるトラブルの模様を描いた作品で、今現在問題視されている「あおり運転」の予告の役割をしている映画であると考えられます。

以前、記事にさせて頂きましたが、スピルバーグもイルミナティ(悪魔崇拝者)です。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、ハリウッド業界そのものが、イルミナティの巣窟でもあります。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

映画「激突」は、無名時代のスピルバーグ作品で、この作品を切っ掛けに売れ出した事からも、イルミナティの洗脳映画として撮影、公開している事を意味しています。

そして、東名高速道路夫婦死亡事故を皮切りに「あおり運転」が問題視される様になりました。

以前、記事にさせて頂きましたが、この件は創価学会が関与していました。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

創価学会=イルミナティの実行部隊ですので、映画「激突」は「東名高速道路夫婦死亡事故」の内容と似ている点がある事から、東名高速道路夫婦死亡事故の予告であった可能性が高いと言えます。

そして、映画「激突」では、サタンを表す「蛇」が登場しています。(55:5256:25

映画にわざわざ「蛇」が登場しているのも、イルミナティサインです。

映画「激突」のあらすじとしては、追い抜いたタンクローリーが執拗に追いかけてくるという内容になっています。

そして、次第に殺意を顕わにして追いかけてくる内容になっていますが、現実的にその様な言動を取る方が多いのではないでしょうか?

残念な事に、私の住んでいる愛知県は車の運転マナーが悪いです。

法定速度で走っていると9割方あおられます。

そして、信仰を持つ前の私もあおる側の人間でした。

信仰を持つ前までは、今思えば不思議な事ですが、追い抜かれると何故かイライラするのです。

そして、追い抜かれると、何故か勝手に負けた様な気になってしまうのです。

別に勝負をしている訳ではないのに、何故かその様な精神状態に陥り、その結果イライラしたり、運転が乱暴になったり、あおり運転をしたりしていました。

元々短気だったというのもあるかとは思いますが、車に乗ると人が変わるという事もあるかと思います。

車という外面を取り繕う事で、その人の本性が顕わになるとも言えます。

自分自身がそうでしたので、自分自身の経験から、その様に言えます。

私は法定速度を大幅に超えて運転するのが当たり前の様な感覚で運転をしていましたので、法定速度で走られるとイライラして、あおったりしていました。

自分で書いていながら思いますが、最低な人間だと自覚しています。

以前にも記事にさせて頂きましたが、法定速度を大幅に超えた速度で運転していた結果、私は警察に3度検挙され、内2回は一発免許停止処分になっています。

そして、検察より起訴され、懲役5ヶ月の有罪判決も受けています。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

あおり運転については、上記リンクの記事でも触れていますが、私のあおり運転が本格的に無くなったのは、それこそRAPTブログ有料記事の御言葉を学び始めた時からです。

つまり、神様が本当に存在していらっしゃると確信した時からとも言えます。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

神様が本当に存在いらっしゃると確信してからは、私の日常生活では神様を意識する様になっていきました。

神様は、常に私たち人間の事をご覧になられています。

私たち人間が生まれた時から、今日に至るまでに行ってきた事の全てをご存知です。

ですから、私が行ってきた全ての悪事を、神様はご存知でいらっしゃいます。

なので、最初から神様に隠し事は出来ませんし、隠そうとした所で最初から筒抜けな訳ですから、全くの無駄です。

つまり、私たち人間の日常生活の全てを、神様は常にご覧になられている訳ですから、私たち人間も常に神様に見られているという事を意識して生活していかなければなりません。

神様を意識して生活するという事は、すなわち神様の御言葉にどこまでも従順に従う事に直結します。

そして、御言葉に従って生きる事で、人は変わる事が出来るのです。

私の場合は、日常的に犯していたあおり運転も、今ではしなくなりましたし、する気もありません。

また、車を運転する速度についても、法定速度と周りの実態速度とバランスを取って運転する様にしています。

法定速度を超えたとしても、+約10km程度に留めています。

愛知県内で厳密に法定速度を守ろうとすると、却って交通事故にあうリスクが高まるケースもありますので、その場その場の状況に応じて臨機応変に対応しています。

ルール、マナーを守る事も御言葉に従う上で重要です。

しかし、世の中の法律で合法であったとしても、御言葉に反する場合には御言葉を優先しなければなりません。

運転マナーというのは、例え自身が守っていても、相手側からマナー違反を受ける事があるかと思います。

その場合は、怒りの感情が湧いてきたりしてしまいますが、気短に怒った所で状況は変わりませんので、気にしない様にしています。

また、そういう時はサタンの誘惑だと思って、無視する様にしています。

気にしてしまうと怒りの感情に囚われてしまいますので、怒りの罪を犯してしまう事になります。

また、どうしても怒りの感情が膨れてきてしまう様な時は、心の中でお祈りする様にしています。

そうする事で、怒りの感情が心に残る事もなく、心穏やかに時を過ごす事が出来ます。

神様を常に意識する事で、御言葉に反した事をさせようと誘導してくる物事は、サタンが罪を犯させようとしてくる罠だと思って割り切り、相手にしない事が知恵です。

車の運転にイライラして、相手と直接やり取りする行為も時間の無駄ですし、躍起になって対抗する事で交通事故を引き起こしたり、周りの方にも迷惑が掛かってしまいます。

もちろん、身の危険を感じた時には、自分の身を守らなければなりませんので、その場合にはそれ相応の対応をしますが、平素から運転マナーに気を付けていれば、その様な状況には基本的には陥らないと思います。

また、あおり運転をしていた側の意見としては、あおり運転に反応する事で、却って相手が調子に乗ってあおってきたりもします。

ですから、煽られた場合には、あおり運転にいちいち反応せず、淡々と安全運転に努めれば良いのです。

追い越していきたい車は勝手に追い越していきますし、道も譲れるのであれば、さっさと譲ればいいのです。

そこに対抗意識を燃やしても何の意味もありませんので、むきになってはいけません。

あおり運転に反応しなければ、あおり運転する側はあおっても無駄だと感じて、勝手に追い抜いていきます。

要するに、あおり運転をするものの好きにさせておけば良いのです。

ルール、マナー違反を繰り返している者は、その内に私の様に神様の裁きを受ける事になります。

あおられて怒れてくるかもしれませんが、その怒りの感情を抑え込んでいる事も神様はご存知でいらっしゃいます。

ですから、例えあおられたとしても、自分で仕返ししよう等とは思わず、神様の裁きに委ねれば良いのです。

聖書には以下の様に書かれています。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

ローマの信徒への手紙 12章 19節

あおり運転をされたしても、怒りのままに行動するのではなく、神様にお祈りして、神様の裁きに委ねれば良いのです。

ですから、あおり運転も神様の裁きの対象になると言えます。

また、あおり運転する側の人間というのは、「承認欲求」の塊でもあります。

あおった結果、道を譲ってもらう事で、その承認欲求を得ているとも言える訳です。

また、ストレス発散として、車のアクセル踏むという行為に及んでいる場合もあります。

愛知県内で運転していて思う事は、車線変更をすると、後ろの車がやたらと詰め寄って来る事が多々あります。

ただ車線変更をしただけでも、その様な事をされるのが愛知県の現状です。

車が一台、前に入ったからと言って、目的地への到着時間はさほど変わりません。

ですが、中には一台も入れたくないと車間を詰めて来る車が結構多いです。

ですから、他県の方で愛知県内を運転する際は、十分にお気を付けください。

この様に、運転時に他車に対する攻撃的な行動というのは、結局の所、自分中心の考えに陥っているからなのだと強く感じます。

自分中心に物事を考えて生きているからこそ、運転マナーだけでなく、その他のマナーも悪くなっているものと考えられます。

そして、自分中心というのは、言うまでもなくサタンの性質です。

サタンは、神様に反逆する事を生業としています。

つまり、神様の御言葉の対極の位置にあるのが、サタンなのです。

そして、聖書に書かれている最も重要な掟を守る事で、基本的に運転マナーが悪くなる事はありませんし、運転マナーが悪かった人でも、自然と運転マナーが良くなっていきます。

では、聖書に書かれている最も重要な掟は何かと言えば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」が最も重要な第一の掟です。

そして、「隣人を自分の様に愛しなさい」が第二の掟です。

この二つの掟を守る事で、人は自分中心に生きる事が無くなります。

第一に神様の為に生き、第二に隣人の為に生きる事によって、他人に対する思い煩いや悩み、不安、心配が無くなっていきます。

自分中心に考えたり、他人の目ばかり気にして生きる生き方では、それこそ心の休まる時がありません。

つまり、心が常に悩み、不安、心配に満ちている為、ちょっとした事で怒りやすくなったり、他人に対して攻撃的になったり、常に情緒不安定な状態に陥ってしまいます。

その様な精神状態は、正に地獄と言えるのではないでしょうか。

信仰を持つ前までは、私もその様な状況に陥っていました。

だからこそ、自分中心にばかり考えて行動しては、あおり運転や法定速度を大幅に超えた速度で運転したりと、満たされない心を満たそうとして、愚かな行為を繰り返し犯してきてしまっていたのです。

今思えば、とても恥ずかしい事ばかりです。

でも、それを隠そうとは思いませんし、無目的に言い触らす事もしません。

このブログの中で、過去の経験談をベラベラと話しているじゃないかと思われるかもしれませんが、全ては神様を証する為に書いています。

何故なら、一人でも多くの方に神様の存在を知って頂きたいからに他なりません。

神様の御言葉の通りに従って生きていく事で、自分自身がどの様に変わっていったのかを証明する事で、神様の御言葉の価値性を皆様方にご理解頂けるきっかけになればと思い、自分自身の経験談をお話させて頂いております。

私は、日常的に交通違反を繰り返し犯してきた結果、実際に懲役刑を課せられた犯罪者でもあります。

その様な犯罪人である私が、今では御言葉にどこまでも従順に従おうと努力し、日常的に犯していた交通違反すらも犯さない様に、むしろ安全運転に努めて運転をする様になりました。

また、自分自身の人間の力では御言葉に従い切れない為、100%御言葉に従う事が出来る様にとも、お祈りしています。

ですから、私がこの様に変わったのは、私個人の力ではなく、偉大な神様の御力なのです。

私個人の力で直せるものであれば、とっくに直っていたはずです。

しかし、神様が本当に存在していらっしゃる事を確信するまでの私は、サタンの性質そのものでしたので、直せるはずもありません。

イルミナティによって生み出された常識という神様の御言葉と真逆の生き方を長年に亘ってしていた為に、私自身が正にサタンそのものだったのです。

この事は、以前にも記事にさせて頂いております。

私がサタンの性質にまみれていた為、その性質を根本から取り除いて下さったのが、神様の御言葉であり、神様の裁きでもあるのです。

イルミナティが生み出した世の中の常識に洗脳されていた当初は、神様の御言葉がとても厳しく聞こえる事と思います。

でも、厳しく聞こえても神様の仰る通りにする事が、何よりも最善の道なのです。

どんなに不利益に見えたとしても、神様の御言葉に従う道を行く事が、人間にとって最も幸福な人生を生きられるのです。

私はその事を信じて、会社を退職する事を決断し、一昨日に退職の意向を伝え、受理されております。

この先どの様になるのかは分かりませんが、今現在の私の状況は、まさに出エジプト記の様な状況とも言えます。

と言いますのも、今日の昼休憩にて、ちょうど出エジプト記を読んでいましたので、自身がその様な状況に置かれている事に気付きました。

また、聖書を読んでいると気付いたら寝てしまっている事が多々あり、最初は自分の怠慢やサタンの攻撃かと思っていました。

もちろん、そういう事もあるかとは思いますが、全体的に聖書を読む速度を神様が計算された上で、調節して下さっているのではないかとも思う様になりました。

この事は、以下の記事でも書いています。

そして、本日は出エジプト記を読んでいて、自身の退職状況と重なる所からも、決して偶然ではないと思いました。

つまり、私は出エジプト記の様に、これから会社(エジプト)を出て、カナンへと旅立つのだと、神様が聖書の通読を通して教えて下さっているのではないかと感じています。

また、今日は断食明けで食事を摂る日ですが、昨日帰宅時に妻から「明日はすき焼きだから早く帰って来てね。」とも言われました。

最近は20時~21時位に帰宅する事が多く、家には寝に帰っている様な状況になっています。

ですから、帰宅時に「すき焼き」と聞いて、平日だと食事の時間に余裕が無い為、土日でいいんじゃないかと伝えましたが、妻が頑なでしたので、結局すき焼きになりました。

その為、少し違和感を感じていましたが、今日出エジプト記と自身の状況が似ている事に気付いた際に、今日の食事が「すき焼き」なのも、決して偶然ではないと思うに至りました。

なお、私は「すき焼き」の記事も書いています。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

群馬県は「すき焼き県」と自称していますので、もしかしたら、今後の私の行く道というのは「群馬県」なのかもしれません。

群馬県は、創価学会と李家の最重要拠点でもあります。

思えば、私がRAPTブログに出会った切っ掛けが、群馬県御巣鷹山に墜落した「JAL123便墜落事故」について調べた事が切っ掛けでした。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

そして、JAL123便墜落事故を知った時、一度群馬県御巣鷹山に行ってみようと思っていた事を今思い出しました。

また、11月11日についてもお祈りしていましたので、神様が食事を通して教えて下さった事になります。

明け方のお祈りで確認させて頂きますが、2021年11月11日は群馬県御巣鷹山に足を運ばせて頂き、神様と出会えました事を心から感謝し、神様を褒め称える一日にさせて頂こうかと考えております。

つまり、今日の「すき焼き」は、2021年11月11日についての行き先を教えて下さった印(しるし)という事になります。

愛知県から群馬県はかなり距離がありますが、神様が与えて下さいました車で遠出したいとも思っていましたので、全く問題ありませんし、むしろ嬉しい限りです。

JAL123便墜落事故によって、亡くなられた方々の為にも、悪の限りを尽くしているイルミナティが一刻も早く滅び去ります様に、引き続き悪なる者達の裁きと滅びを強力にお祈りして参ります。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

HAJIME