パイロットから繋がる悪魔崇拝と芸能界。または北野武について。

こんにちは。

HAJIMEです。

今回は、パイロット(航空機)について書いていきたいと思います。

まず、航空機が登場したのが1900年初頭頃とされています。

当時の航空先進国がフランスだった様で、フランスにて国際航空連盟が設立されました。

また、世界で初めて飛行学校が設立されたのもフランスの様です。

そして、ヨーロッパにて世界で通用する万国飛行免状が設定されました。

その万国飛行免状を、日本人で初めて取得したのが「滋野清武」という人物ですが、「滋野清武」の話をする前に、その父「清野清彦」について先にお話しさせて頂きます。

1846年長州藩士・真弓田謙次信眞の長男として長門国阿武郡生雲中村に生まれる。奇兵隊に入隊して書記や伍長、第一銃隊長として、第二次長州征伐の小倉口の戦いや北越戦争での朝日山の戦いなど奥州各地を転戦する。この頃、滋野姓に改める。

維新後は陸軍にすすむ。

(中略)

1892年11月には中将昇任と同時に予備役編入となったが、日清戦争の勃発に伴って現役復帰し、留守近衛師団長に就任した。1895年、再度予備役に編入となり、同年8月20日に勲一等瑞宝章を受章。

1896年胃癌のため、東京市麹町区富士見町の本邸にて死去した。

(中略)

酒豪であった明治天皇とは、親しく酒を酌み交わす間柄だったと伝えられる。

出典:滋野清彦 – Wikipedia

まず、滋野清彦は長州藩で、明治維新後は陸軍になっています。

そして、「明治天皇」とは、親しく酒を酌み交わす間柄との記述から、滋野清彦は田布施一族と言えます。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、滋野清彦の死因が「胃癌」になっていますが、癌という病気は存在しませんので、悪魔崇拝儀式の生贄として殺された可能性が考えられます。

以上の事から、滋野清彦はイルミナティ(=悪魔崇拝者)であると言えるのではないでしょうか。

そして、イルミナティ=田布施一族である滋野清彦の三男が「滋野清武」です。

1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋[1]に生まれた(東京生まれとも[2])。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。

(中略)

音楽学校で知り合った子爵清岡公張の三女和香子と結婚し、娘・露子をもうけるも、結婚2年で和香子は死去した[2][3]1910年12月、妻和香子を亡くした後に渡仏する。本来の目的は音楽を勉強することだったが、パリの音楽学校在学中にライト兄弟たちの活躍による飛行機熱に呑み込まれる[4]ヴォワザンの飛行学校、次いでジュヴィジーの飛行学校、ドュマゼル・コードロン飛行学校へと転校して操縦術等を学び、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)第744号[3]を取得する。1912年、自らが設計し、亡き妻の名を冠した飛行機「和香鳥号」と共に帰国する。臨時軍用気球研究会の御用掛として、日本陸軍の操縦将校の教官となるが、徳川好敏大尉との軋轢もあり(滋野の方が飛行技術も教え方もずっと上だったことが、徳川は気に入らなかった)1914年に再度渡仏して、パリ郊外のファルマン飛行学校に入学した。

第一次世界大戦の開戦で、フランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命される(陸軍歩兵大尉飛行隊付き[3])。外人部隊第1連隊に入隊後、ポーの飛行学校に編入され、のち追撃隊に所属する。エースを集めたコウノトリ飛行大隊の操縦士としてスパッドVIIに搭乗、主に地上支援で活躍したが、それでも6機程度を撃墜し、この戦争で日本人唯一の、そして日本航空史上最初のエース・パイロットとなる。この戦功が認められ、1915年10月にレジオン・ドヌール勲章クロワ・ドゥ・ゲール勲章に叙勲した。

出典:滋野清武 – Wikipedia

滋野清武は、結婚した2年後に妻「和香子」が死んでいます。

「和香子」は、「清岡公帳」の三女です。

清岡公帳は、土佐藩郷士で、長州藩に亡命しています。

そして、後の内閣総理大臣でもある「三条実美」や、「乾(板垣)退助」とも繋がっている人物です。

明治維新後は、「枢密顧問官」でもある事から、清岡公帳も田布施一族と言えるものと思われます。

よって、清岡公帳の三女「和香子」も田布施一族であり、同じ田布施一族の「滋野清武」と結婚したという事になります。

和香子の死因は結核とされていますが、滋野清武は自ら設計した飛行機に、亡き妻の名を冠しています。

死者の名を冠する事で、死者を英雄視するのは、イルミナティ(=悪魔崇拝者)に見られる特徴である様に思われます。

アメリカが、特にその最たる例と言えるのではないでしょうか。

アメリカは、軍艦の名に歴代大統領の名を冠しています。

ですから、「和香子」の死因が結核とはされていますが、悪魔崇拝儀式の生贄として殺された可能性が考えられます。

「和香子」の死後、渡仏して日本人で初となる「万国飛行免状」を取得しています。

その後、「和香鳥号」と共に日本へ帰国し、陸軍になっています。

しかし、陸軍では、清水徳川家8代目当主「徳川好敏」によって、陸軍から排除されてしまっています。

しかしながら、徳川家と言えば「出雲族」です。

そして、陸軍と言えば「秦氏」です。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

ここで、徳川家(出雲族)なのに陸軍(秦氏)という矛盾が生じてしまいますが、徳川好敏は「徳川慶喜」と血筋が繋がります。

その為、徳川好敏は、「出雲族」でも「秦氏」と繋がる「白出雲族」であるものと思われます。

下記ツイートをご覧ください。

ですから、滋野清武(秦氏)と徳川好敏(白出雲)が争い合っていたのも、陸軍航空士官の主導権争いであった可能性が考えられます。

その証拠に、徳川好敏には、軍および華族の後ろ盾がある事を示している記述があります。

徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族らの意向だったといわれている[8]

出典:徳川好敏 – Wikipedia

つまり、血筋的に徳川好敏の方が優勢だった為に、滋野清武は陸軍から出ていかざるを得ない状況になったものと思われます。

なお、実力では滋野清武の方が上であったと書かれています。

そして、陸軍から排除された滋野清武は、再度渡仏し、第一次世界大戦では6機を撃墜する日本人初のエースパイロットになっています。

エース・パイロット: Flying Ace、フライング・エース、: As、アス、: Fliegerass、フリーガーアス、日: 撃墜王〈げきついおう〉)は、多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロットに与えられる称号航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。

現在は5機以上撃墜した者とされ、また歴史を通じて主に戦闘機のパイロットに与えられる傾向がある。

出典:エース・パイロット – Wikipedia

徳川好敏は、エースパイロットになっていない事からも、実力が無かったという事が言えますので、徳川家という血筋だけでのし上がった人物という事になります。

そして、撃墜数史上最多の人物が「エーリヒ・ハルトマン」という人物になります。

エーリヒ・ハルトマンドイツドイツ空軍352通称「ウクライナの黒い悪魔」、愛称は「ブービ(坊や)」。史上最多撃墜者。
出典:エース・パイロット – Wikipedia

この「エーリヒ・ハルトマン」の愛称を採用したゲームが、「エースコンバット5」です。

ブービーというあだ名はエーリッヒ・ハルトマンのあだ名であった「ブービ(Bobi)」に由来している[13]

出典:エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー – Wikipedia

エースコンバット5においても、主人公の所属している部隊を「ラーズグリーズの悪魔」と敵国からは呼ばれていました。

第108戦術戦闘飛行隊サンド島分遣隊ウォードッグ(108th Tactical Fighter Squadron Wardog)

数々の戦いで活躍し、とりわけシンファクシとリムファクシを沈めるという大戦果を挙げたため、オーシア軍の将兵からは「サンド島の4機」や「ラーズグリーズ海峡の英雄」と呼ばれ頼りにされ、ユークトバニア軍からは「ラーズグリーズの悪魔」と呼ばれ恐れられるようになった。

出典:エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー – Wikipedia

また、部隊の名称から、108=10+8=18=666=悪魔の数字となりますので、「ラーズグリーズの悪魔」という呼称を採用している事からも、「エースコンバット5」もイルミナティによる洗脳装置と言えます。

エースコンバット5の開発元は、「ナムコ」です。


日本マスタートラスト信託銀行
(株)(信託口) 15.78%
(株) 日本カストディ銀行(信託口) 5.51%
JP MORGAN CHASE BANK 380815 4.90%
出典:バンダイナムコホールディングス – Wikipedia

バンダイナムコホールディングスの主要株主が、日本マスタートラスト信託銀行、日本カストディ銀行、JPモルガンと、イルミナティ企業が大株主になっています。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

滋野清武に話を戻しますが、滋野清武は「レジオンドヌール勲章」などの勲章を授与されています。

勲章は、イルミナティ(=悪魔崇拝者)に貢献した人物に与えられる物になります。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

そして、滋野清武の長男に「ジャック滋野」こと「滋野清鴻」がいます。

ジャック 滋野(ジャック しげの、Jacques Shigeno、1922年9月11日[1] – 1989年6月20日[2])は、日本ジャズピアニスト本名、滋野 清鴻(しげの きよとり)。

(中略)

近所の野良猫に餌をやろうとしたとき、あやまってビルの階段から転落し死亡した。

出典:ジャック滋野 – Wikipedia

滋野清鴻は、近所の野良猫に餌をやろうとしてビルの階段から誤って転落し、死亡したとありますが、そんな事が本当にあるんでしょうか?

滋野清武がイルミナティである以上、ただの転落死とは思えません。

また、滋野清武の次男に「滋野清旭」がいます。

清鴻の弟の滋野清旭もロジェ滋野と名乗るミュージシャンで、ジャズバンド「パップ・コーンズ」のドラマー。このバンドのリーダーにジェリー藤尾、バンジョー奏者に高木智之(後の高木ブー)、セカンドシンガーに仲本工事がいた[12]ロジェはまたジャッキー吉川とブルー・コメッツの前身「ブルー・コメッツ」の結成者でもある。

出典:滋野清武 – Wikipedia

滋野清旭は、「ジュリー藤尾」、ドリフターズの「高木ブー」と「仲本工事」と繋がっています。

ジュリー藤尾について、下記引用をご覧ください。

黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍する。

(中略)

自らのバンド「パップ・コーンズ」のメンバーに高木智之(後の高木ブー)や仲本興喜(後の仲本工事)がいる。1963年1月2日に高木の娘が生まれた際には、その名付け親となった[8]

出典:ジェリー藤尾 – Wikipedia

まず、ジュリー藤尾は、黒澤明が監督した映画「用心棒」に出演していました。

黒澤明もイルミナティ(=悪魔崇拝者)です。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

そして、ジュリー藤尾は、高木ブーの娘の名付け親とも書かれています。

高木ブーも仲本工事もドリフターズな訳ですが、ドリフターズは「漂流者」の意味があり、「放浪の民・ユダヤ人」の事を意味しています。

下記ツイートをご覧ください。

ですから、高木ブー、仲本工事はユダヤ人であり、高木ブーの娘の名付け親になっているジュリー藤尾もユダヤ人と言えます。

つまり、滋野清旭がジュリー藤尾や高木ブー、仲本工事とジャズバンドを組んでいたのは偶然では無く、田布施一族同士のつながりがあったという事が言えます。

滋野清武に話を戻しますが、滋野清武は学生時代に「志賀直哉」等から、集団暴行を受けていた様です。

学習院中等科に在学時、1級上の志賀直哉有島生馬松方義輔松方正義の九男)から集団暴行を受けたことがある。志賀は「人を殴つた話」と題する1956年随筆の中で、清武を「兎に角、妙に人に好かれぬ男だつた」と評している。集団暴行を加えた理由は、華族女学校の正門前に立ち尽くしていることだったが、実際は滋野は妹たちの送り迎えをしているだけであった。(岩波書店『志賀直哉全集』第9巻、1999年、pp.351-354)

出典:滋野清武 – Wikipedia

志賀直哉については、下記をご覧ください。

志賀 直哉(しが なおや、1883年明治16年〉2月20日 – 1971年昭和46年〉10月21日)は、日本小説家明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。

(中略)

中等科在学中の1901年(明治34年)7月[13]、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席する。そこで直哉は煽動的な調子のない「真実さのこもった」「胸のすく想いが」する内村の講義を聴く。「本統のおしえをきいたという感銘を受けた」直哉はこうして内村の魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉はのちに、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている[14]

(中略)

1903年(明治36年)、学習院高等科に入学。高等科の頃の直哉は女義太夫に熱中していたが、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。

出典:志賀直哉 – Wikipedia

まず、志賀直哉は「小説の神様」と称されていますが、この様な呼称は、神様への反逆行為に該当します。

また、志賀直哉は「内村鑑三」を師事し、影響を受けた人物の一人として「内村鑑三」の名を挙げています。

内村鑑三は、エスペランティストです。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、内村鑑三記念堂(石の教会)は、悪魔崇拝施設である可能性が考えられます。

下記ツイートをご覧ください。

この事から、内村鑑三は群馬人脈(九鬼家・青山家・李家)であるものと言えます。

そして、内村鑑三を師事していた志賀直哉も群馬人脈である可能性が考えられます。

群馬人脈については、下記リンクをご覧ください。

そして、志賀直哉は、高等科の頃に「女義太夫」に熱中していたと書かれています。

女義太夫(おんなぎだゆう)、または娘義太夫(むすめぎだゆう)は、女性による義太夫語り。現在では「女流義太夫(じょりゅうぎだゆう)」と呼ぶ。[1]略して「女義(じょぎ)[2]」と呼ぶ[3]

(中略)

衣装は、夏は白、冬は白の着物に、大夫/三味線ともに揃いの肩衣と袴をつけておこなう。

(中略)

大阪では豊竹呂昇が人気で、東京では1887年には大阪から上京した竹本綾之助が空前の人気となり、芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。東京では人形町の宮松、両国、本郷の若竹、吾妻橋の東橋亭や、新柳などが真打の出る寄席で、その他には弟子を出させていた[6]

この頃、内容が佳境にさしかかると、客席にいる書生らの熱心な見物から、「どうする、どうする」と声がかかった。このことから、そうした見物を「堂摺連どうするれん」と呼んだ。特に激しい者は手拍子を打ち、茶碗の底を擦り合わせて騒ぐほど熱狂したという。また、人力車の後押しをしたり、娘義太夫の日本髪が熱演のあまり乱れ、かんざしが髪から落ちる(演出である)と、それを拾おうと場内が混乱することもあった。15・6歳ほどの年端もいかない少女に熱狂する若者たちの様は、現代のアイドルのそれにも多く例えられる。

(中略)

ビートたけしの祖母である北野うしは、竹本八重子という娘義太夫であった。

出典:女義太夫 – Wikipedia

まず、女義太夫の衣装は、肩衣と袴とあります。

「肩衣」=「裃」(かみしも)の事を言います。

下記引用をご覧ください。

(かみしも)とは、和服における男子正装の一種。

裃は「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組合せで成り立ち、それらを小袖の上から着る。

出典:裃 – Wikipedia

つまり、女義太夫の衣装というのは、男子の正装を女性が身に着ける事になります。

女性が男性の衣服を着用する「男装」は、聖書で禁じられている行為です。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、女義太夫は熱狂的なファンがいた事からも、現代のアイドルの先駆けであるとも考えられます。

そして、ビートたけし(北野武)の祖母「北野うし」は、「竹本八重子」という芸名の女義太夫だった様です。

北野武は「李家」ですから、イルミナティ(=悪魔崇拝者)です。

つまり、北野武が李家である以上、北野武の祖母「北野うし」も李家であると言えます。

北野うしについては、下記引用をご覧ください。

1873年9月、徳島城下通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。

折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。 明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。

大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。この時期うしは義太夫の指導をしていたが、名家を訪ねたときに奉公に来ていた機転の良い娘を知り、養女にして息子の妻に迎えた。この娘が小宮さき千葉県市原市出身)で、1923年1月に徳次郎と結婚。しかし同年8月18日に不幸にも徳次郎が虫垂炎に罹り急死したため、替わりにうしの実の甥で腕の良い漆職人(後にペンキ職人)正端菊次郎を1925年8月17日婿に迎え北野家を継がせた。

その菊次郎とさきの夫婦には、北野重一(1927-2012、宇野製作所取締役営業本部長も務めた)、明治大学名誉教授)、末っ子の(お笑い芸人のビートたけし)ら合計で5人の子供(残る2人の内1人は中山(旧姓・北野)安子、もう1人は幼少期に末っ子の武の生誕前に死去)が生まれた。うしはたけしら兄弟の父方の大叔母であり、母方の養祖母である。

出典:北野うし – Wikipedia

うしは、花形の一人であった事からも、人気を得ていたものと思われます。

北野家はある程度裕福であったと書かれていますが、女義太夫で花形だった訳ですから、ある程度ではなく、普通に裕福であったと考えられます。

ましてや李家で、上級国民な訳ですから、過去に「貧乏」だったという設定は「嘘」であると言えます。

また、北野武はオウム真理教の「麻原彰晃」とも繋がっていました。

下記引用をご覧ください。

1990年代初めにはオウム真理教の教祖麻原彰晃の宗教観に深く陶酔し、自ら対談を申し込む[47][48][49]など、一時期交友関係を持った。地下鉄サリン事件後は否定的な見解を取っている。

出典:ビートたけし – Wikipedia

麻原彰晃の宗教観に陶酔したというのも、北野武が李家であり、共にイルミナティ(=悪魔崇拝者)であったからに他なりません。

言うまでもない事ですが、麻原彰晃もイルミナティ(=悪魔崇拝者)です。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、北野武は、明仁上皇(当時の天皇)を「神にかなり似た存在」と形容していた様です。

下記引用をご覧ください。

明仁(上皇)と美智子(上皇后)に対しては畏敬の念を述べている。

ビートたけしが明仁を「すごい存在」と初めて思ったきっかけとして、中学生時代に母親に連れられて皇太子妃時代の美智子を送りに軽井沢に行ったことを竹田恒泰と対談した際に明かしており、「強制されて行った感じはなかった」と述べている。天皇について「信仰に近いというか、神にかなり似た存在」と形容しており、「日本の歴史を振り返ると天皇は『はなからいる』存在」とも述べている。

出典:ビートたけし – Wikipedia

天皇はイルミナティ(=悪魔崇拝者)の中でもトップな訳ですから、李家である北野武が、天皇に畏敬の念を持つのも当然の事と言えます。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

更に、北野武と言えば、「たけし軍団」です。

たけし軍団の一人である「つまみ枝豆」は、霊感が強いそうです。

1990年代より稲川淳二池田貴族と並び怪談の話者としての活動に力を入れる。他の軍団メンバーと違い、師匠のたけしと共に枝豆自身も霊感が強い。

出典:つまみ枝豆 – Wikipedia

そして、北野武も霊感が強いと書かれています。

もしかすると、北野武がお笑い界で「BIG3」と呼ばれている程の地位を得ているのも、単純に血筋だけでなく、霊感が強いというのも理由の一つなのかもしれません。

霊感が強ければ、それだけ悪魔崇拝儀式においても力を発揮するでしょうから、イルミナティ(=悪魔崇拝者)から重宝されていたとしても不思議ではありません。

麻原彰晃に陶酔していたのも、北野武がサタン(=悪魔)からの霊感を受けて、サタンと繋がったからなのかもしれません。

私も、タイでサタンと繋がった事で、その様な経験をした事があります。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

ですから、北野武は血筋だけでなく、常日頃からサタン(=悪魔)の力を受けて、今のお笑い界の地位を築いたのかもしれません。

そう考えると、「明石家さんま」と「タモリ」も同じ事が言えるのかもしれません。

明石家さんまは李家で、タモリは皇族ですから、両名とも上級国民です。

そして、明石家さんまは、ワクチンを打たないと発言していました。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

また、「ワクチンを打つと、人間は霊的なものを知覚できないロボットと化す」と、シュタイナーが述べていました。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

つまり、明石家さんまがワクチンを打たないのも、霊感が無くなるから打たないと発言していたものと思われます。

逆を言えば、明石家さんまには霊感が有る事になりますから、常日頃からサタン(=悪魔)の力を受けているのかもしれません。

そうなると、やはりお笑い界の「BIG3」と呼ばれる「北野武」、「明石家さんま」、「タモリ」は霊感が強く、常日頃からサタン(=悪魔)の力を受けているという可能性が非常に高いものと思われます。

つまり、イルミナティ(=悪魔崇拝者)にとっての核心人物というのは、血筋だけでなく、霊感及び霊力の強さも重要であるものと思われます。

いずれにしても、お笑い界の「BIG3」は、イルミナティ(=悪魔崇拝者)である事に間違いありません。

必然的に、彼らの出演している番組というのは、サタン(=悪魔)の思想が色濃く反映されているものになります。

サタン(=悪魔)の洗脳を植え付けられない様にする為にも、テレビから離れる事が知恵と言えます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

HAJIME