世界一のトランペット奏者「チェット・ベイカー」もイルミナティ。または、神様の御言葉に従う事についての具体的な証。

こんにちは。

HAJIMEです。

今回は、トランペットについて書いていきたいと思います。

トランペットは金管楽器の一種です。

トランペットはオーケストラや吹奏楽、ジャズ等に使用されている様に見受けられます。

トランペットは遡りますと、約3000年前のエジプトへと辿り着く様です。

歴史上最も古いものは、およそ3千年前のエジプトの出土品の中に見られる。材質は金、銀、青銅のほか、土器、貝、象牙、木、樹皮、竹、瓢箪などで、形や長さも様々であり、初期のトランペットには音孔やバルブ機構などはなかったので、出せる音は倍音のみに限られていた。

出典:トランペット – Wikipedia

聖書では出エジプト記に、「角笛」が登場しています。

もしかすると、角笛が後のトランペットに進化していったのかもしれません。

また、角笛と言えば、ヨシュア記6章にて「エリコの城」を落とす為の準備として、角笛を吹き鳴らしながらエリコの城を周り、エリコの城を落とす様子が書かれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーヨシュア記6章1節~20節

エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。
そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。
あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。

ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、
次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。
8:ヨシュア記/ 06章 08節
ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。
武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。
彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。
翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、
七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、
七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。
町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。
あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。
金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。

ーーーーーーーーーーーーーーー

ヨシュアは、神様の指示通りに行い、またヨシュアに従う民達も指示通りに従いました。

その結果、神様の仰った通りにエリコの城壁が崩れ落ち、ヨシュアと民達はそれぞれ、その場から突入してエリコを占領しています。

城の周りを回る事に何の意味があるのかと思うかもしれませんが、神様の指示通りに行う事で、城壁が崩れ落ち、城壁を破壊する事なく突入する事が出来、町を占領する事が出来ています。

もし、神様の指示通りに行っていなかったとしたら、城壁が崩れ落ちる事もなく、エリコの城を落とす事も出来ていなかったかもしれません。

この様に、エリコの城を通して分かる通り、神様の指示通りに行う事が、私たち人間にとって最善の道なのです。

指示に従うその時は、人間的に不利益になる様に思えたとしても、後々になって指示通りに行って良かったと思う事が多々あります。

例えば、私の経験談になりますが、私は今現在もサラリーマンをしております。

社長のコロナワクチン接種予約を頼まれてした際に、ワクチン接種を止めた方が良いのではないかと思い、接種を考え直す様に社長へ3回話をしております。

1回目と2回目は、業務上の中での成り行きで話をしました。

しかし、もう一回言うべきなのではないかと思う気持ちが湧いてきましたので、3回目を言おうと決断し、計画を練りました。

計画を練っていく内に、説明をするにあたって必要な物(TVとPCを繋ぐHDMIケーブル)が生じました。

すると、不思議な事に会社で使用しているPCのモニターが突然調子が悪くなり、取引先の文具屋さんを呼ばざるを得ない状況になりました。

そして、壊れたモニターを見に来た文具屋さんの営業担当の方に、HDMIケーブルを借りられないか打診した所、ちょうど営業車の中に転がっていたとの事で、無料でお借りする事が出来ました。

こうして必要な物が都合良く揃ってしまった訳ですが、その反面、引くに引けない様な状況になってしまった事にもなります。

サラリーマンの方はよく分かるかと思いますが、既に2回却下されている案件について、3回続けて上司に言った場合には、大体「前も言ったじゃないか!」と、怒られる事がほとんどです。

私の場合は、上司ではなく社長だったので、サラリーマンとしてはある意味自殺行為です。

この場合、人間的に見たら同じ内容を3回続けて社長に言わない方が良いと、誰もが考えるのではないでしょうか?

もちろん、私もその様に考えてもいました。

しかし、会社のモニターが突然壊れ、文具屋さんの営業車にHDMIケーブルがちょうど載っており、無料で貸してもらえるというのは、どう考えても偶然ではありません。

つまり、神様が私の周りの方に働きかけて下さり、社長に3回目の説得をする様にお導き下さった事になります。

その事に気付いた私は、まず御言葉に従うにはどうすべきかと考えました。

今回の案件について、該当する御言葉は以下の通りです。

ーーーーーーーーーーーーーーーマタイによる福音書10章34節~39節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
ーーーーーーーーーーーーーーー

1回目、2回目ともに却下されている内容について、3回続けて社長に直談判する事は、サラリーマンにとっては自殺行為です。

ですから、人間的に見れば直談判しない方が、波風も立たず、社長に目を付けられる事もなく、平穏に毎日を過ごせるという風に考えると思います。

しかし、その様にする行為は、上記黄色マーカーの聖句に引っ掛かります。

つまり、その様な行為は、自分の命を得ようとする行為に該当します。

ですから、御言葉に反する事になります。

また、以下の御言葉も今回の件で該当します。

ーーーーーーーーーーーーーーーマタイによる福音書10章26節~31節

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

ーーーーーーーーーーーーーーー

人間を恐れてはならないと書かれています。

人間は、肉体を殺す事は出来ても、魂を殺す事は出来ません。

魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る神様を怖れなさいと、イエス様は仰られています。

御言葉に従う私たち義人の事を、神様は髪の毛一本一本の本数すらも数えている程に、常に見て下さっているのです。

つまり、人間を恐れて人間に従うのではなく、神様を怖れて神様の御言葉の通りに従わなければならないのです。

でなければ、体だけでなく、魂をも地獄で滅ぼされてしまう事になってしまいます。

この御言葉に従わなければと考えた私は、社長に3回目の直談判を決行する決意を固めます。

先程も申し上げましたが、社長に3回目の直談判をする事は、サラリーマンとしては自殺行為に等しいです。

つまり、私はクビを覚悟して3回目の直談判をする決意を固めました。

そして、神様の御言葉に従い通せる様に祈り求め、ただ神様だけを頼って、3回目の直談判を決行しました。

流石に3回目ですから、正攻法で言っても話になる事もなくシャットアウトされますから、半分騙し討ちの様な形で話を持っていきました。

つまり、案件の内容は言わずに、確認してもらいたい資料がある旨だけを伝えて、資料(動画)を見せました。

案の定、社長はイライラします、でも関係ありません。

そのイライラを無視して資料を見てもらおうと継続します。

そして、痺れを切らした社長から、案の定怒り口調で色々と言われましたが、一歩も引かずにただ真実だけを伝え続けました。

私を説き伏せる事が出来ないと判断した社長は、強制的に話を終わらせてしまいます。

もう聞く耳を持って貰えないと思った私は渋々引き下がります。

言いたい事を全部言い切れず、不完全燃焼のままに終わってしまいました。

つまり、結果的にはワクチン接種を考え直して下さる事はなく、私の計画自体は失敗に終わった事になります。

しかし、不思議な事に終わった後は、不完全燃焼だったにも関わらず何故か心がとてもスッキリして、全ての思い煩いが取れた様な感覚になりました。

この事は、以下の記事にも書かさせて頂いております。

当時は分かりませんでしたが、御言葉通りに従った事を神様が喜んで下さっていたのではないかと、今この記事を書いていて気付いた次第です。

更に、今になって思うのは、もし私がワクチン接種に関して3回も直談判していなかったとしたら、ワクチン接種の同調圧力があった可能性が非常に高いものと思われます。

社長はワンマンな性格ですから、俺が打ったんだから全員打ちなさいという圧力をかけてきたものと思われます。

強制する様な物言いは直接しなかったとしても、それに近い圧力があった可能性が十分に考えられます。

私が社長に3回もワクチン接種を考え直す様に直談判した為か、社員に対してワクチンの「ワ」の字も言ってくる事はありません。

私は今現在もクビになりそうに見えながら、しぶとくも会社に在籍していますが、ノーマスク、ノーアルコール、ノーワクチンの状態を維持しています。

つまり、一見自殺行為に見えた3回目の直談判ですが、御言葉の通りに従った事で、ワクチン接種という本当の自殺行為を回避する事が出来たのです。

そして、私だけでなく、職場の方全員がワクチン接種という圧力を受ける事なく過ごす事が出来ています。

つまり、全て神様の御言葉の通りの事が起きている事になります。

正に、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」という御言葉の通りです。

この様に、私は神様の御言葉の通りに従った事で、ワクチンの接種を免れる事が出来ました。

人間的に考えると、マイナスや不利益を被る様に見えたとしても、神様の御言葉の通りに全て行動する事で、全てが上手く行く事になるのです。

ですから、社長への3回目の直談判をするかしないかというのは、私にとって人生のターニングポイントであったとも言えます。

もし、御言葉の通りに従っていなかったとしたら、ワクチンの接種をしていたか、例えワクチン接種を拒否したとしても、何らかの形で退職に追い込まれたり、社内での扱いに不利益を被っていたりなど、不幸にしかならない結末になっていたと思われます。

この様に、人間的に考えるのではなく、御言葉の通りに従った上で物事を考えていかなければなりません。

でなければ、これから起こる世の終わりの裁きに巻き込まれ、本当に命をも落とす可能性もあります。

人を恐れる事なく、また、人に頼る事もなく、ただ神様の御言葉の通りに従い、神様をどこまでも信じて依り頼んでいく事でしか、神様の裁きを免れる事が出来ません。

実際に、私の所属している会社も神様から裁かれています。

グループ全社で売上大幅ダウン、資金繰りに困窮し、設備の破損や公的な申請上の不備など、様々なトラブルが多発しています。

そのトラブルに、私の上司は巻き込まれていますが、私は何の被害も受けていません。

また、先日は地元の国会議員の選挙演説が会社内で有り、出席したくないのもありましたが、国会議員の偽善には我慢ならない部分も有りましたので、その日程が分かった段階で神様にお祈りしていました。

いつもですと、私の上司が司会を行い、私は「頑張ろう!コール」をする等、偽善選挙の片棒を担がざるを得ない状況になるのですが、いざ当日を迎えますと、上司は半分仕事の内容で有給休暇となり、司会を私がやる事になるのかなとも思ったのですが、社長が外部から引っ張ってきた10月入社の方が司会を担当する事になり、じゃあ演説は聞かなければいけないのかなと思っていたら、「電話番をする必要があるな」という話になり、当日出勤している中で、私だけが選挙区外の人間でしたので、必然的に私が電話番をする事になりました。

つまり、私は会社で行われた選挙演説に出席する事もなければ、偽善選挙の片棒を担ぐ事をも回避する事が出来たのです。

私は電話番の話になった時に、神様が働いて下さったという事を、とても強く感じました。

私は、偽善選挙の演説を聞きたくなかったので、「どうしたら良いでしょうか?」と神様にお伺いを立てるだけでなく、その地元議員候補の裁きと滅びも併せて祈っていました。

それ位に嫌だったので、もう切実でした。

しかし当日になって、いざ蓋を開けて見たら、その演説を聞かなくても良い様に配慮して下さったのです。

この絶妙かつ緻密な采配は、私たち人間には到底出来ません。

正に神業です。

私という人間には一切出来ない事です。

神様に祈り求めた結果、神様の御力が私の周りに働き、私が偽善選挙に巻き込まれない様にして下さったのです。

神様に心から感謝致します。

たかが選挙演説くらい聞けばいいじゃないかと思うかもしれませんが、そのたかが選挙演説についての祈りも、神様は聞いて下さったのです。

ですから、私は電話番の話になった時に、もう跳び上がる程に嬉しかったです。

こんな細かい祈りまでも聞いて下さり、しかも絶妙かつ緻密な采配で対応して下さった訳ですから、もうどこまでも感謝するしかありません。

そして、もっと神様の為に生きようと思う様になりました。

正直に申し上げますと、私自身は御言葉の通りに100%従い切れていません。

でも、何とか従いたいと思って努力しています。

御言葉に従っていく中で、従い切れていない部分が見えてくる訳ですが、自分の弱点や欠点故に従い切れていない事が段々と目についてきます。

意図的に犯すのではなく、知らぬ間に犯してしまう罪が目について仕方ありません。

ほぼ毎日です。

その罪を無くす為には、サラリーマンを辞めなければ無くす事が出来ないんじゃないかと、最近少しずつ思う様になりました。

しかし、働きながら毎日ブログを書く事は今の職場だからこそ出来るのであって、転職した場合にはまず不可能になります。

ですから、お祈りの中で神様にご相談させて頂き、神様のお導きの通りに従順に従って対応していきたいと思っています。

私が今の職場で毎日ブログを書く事が出来ているのも、神様がその様に配慮して下さっているからに他なりません。

ですから、私だけの意思や都合で勝手に退職したりする事もまた、神様の御心に反する事だと思いますので、きちんとお祈りして神様の仰る通りに対応していきたいと考えている次第です。

神様を信じ、神様だけを頼って生きなければ、私は生きていける自信がありません。

私は、神様からの霊感を頼りにブログを毎日書く日々を過ごさせて頂いております。

もし、御言葉に従わず霊感を受けられなくなったら、私はどこまでも絶望です。

実は、先日その事を体験させて頂き、絶望したくない思いで、必死にお祈りしました。

いつも漕いでいる自転車を約2時間程、全力で漕ぎながらお祈りしました。

当然の事ではありますが、全身汗だくになり必死になっている中、危機的状況にも関わらず霊的にもの凄い力を受けました。

まるで、6月6日に起こった事と、同じ感覚があった様に感じました。

絶望を感じる様な事というのは、ほぼ毎日従いきれていない事とも直結します。

それは、「二度寝」です。

明け方の時間に起床するのですが、気付くと二度寝してしおり、絶望しかけた時に起床した時間は4時です。

自分の不注意によって神様の歴史が止まってしまう事は絶対に避けたかった事なのに、「やってしまった!」と思い、もう神様の事しか考えていませんでした。

車輪が取れるんじゃないかと思う位の勢いで、全力で漕いではお祈りしました。

霊感が受けられない不安を抱えつつも、その不安を拭うかの様に全力で自転車を漕いでは、神様を信じて祈り続けました。

結果的には霊感を受けられましたので良かったのですが、「会社を辞めなければならないな」と、心に思ったのは言うまでもありません。

サラリーマン生活でも何とか明け方の時間を早い時間からと思っていましたが、なかなか自分の限界を突破出来ていません。

自分自身の弱点を克服するのは本当に大変で、一向に克服出来る兆しはありませんが、だからと言って諦める訳にはいきません。

RAPTさんが仰られていた通り、サタンとの戦いよりも、自分自身との戦いの方がより困難であると、身を持って体感しております。

自分自身に打ち勝って来られたRAPTさんは、本当に凄い御方です。

自分自身の限界を突破されているRAPTさんは、正に神の人です。

イエス様や先生、歴代の中心者、大使徒パウロもその道を通って来られ、また自分自身に打ち勝っては、神様の御心を成されてきた訳ですから、私もその様になりたいと、改めて思う次第です。

御言葉の通りに考えますと、現実的な目標として大使徒パウロの様になりたいと、聖書を初めて読んだ時から不思議とそう思いました。

ですから、少しだけ聖書を読める時間がある時などは、「使徒言行録」のパウロの伝道シーンをよく読んでいましたし、これからも読み続けていくと思います。

ギリシャのアルテミス信仰に真っ向から伝道する姿や、ローマでの裁判においても堂々と発言しては伝道しようとされていたり、鞭に打たれ、投獄されてもなお看守達を伝道したりと、今の私が当時のパウロだったら到底出来ない事を次々と行っているのです。

しかし、人間的に見て不可能だと思える事でも、神様に祈り求める事で、不可能が可能になるのです。

パウロは使徒言行録にて、以下の様に述べています。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

使徒言行録 20章 24節

パウロは自身に課せられた使命を果たす事さえ出来るのであれば、命すら惜しくないと述べています。

パウロが伝道していた当時は、支配者が人を殺す事が日常茶飯事だった時代です。

ですから、支配者側にとって都合の悪い事を言うだけでも、鞭打たれ、投獄され、最悪の場合は処刑されていた時代でもあります。

その背景を頭に入れて、新約聖書や使徒言行録を読む事で、イエス様やパウロやその他の使徒達の状況をよりご理解頂けるのではないかと思います。

神様の御言葉に従う事は、聖書の基準で従わなければなりません。

ですから、私も使徒言行録でパウロが述べている基準で信仰生活をしていきたいと思う次第です。

聖書の基準で考えますと、私が社長に3度目の直談判をする事がどれだけ小さい事かと思わざるを得ません。

今の私は、その程度の次元(レベル)なのです。

だからこそ、日々努力しては成長して、現実世界ではRAPTさんの様に、聖書の中ではパウロの様に、全世界中の人々を伝道していける者になりたいと、そう心に思う次第です。

私は、RAPTさんが公開して下さっている「誰でも世界を変えられる」という対談動画を視聴した時に、RAPTさんがそう仰るのであれば「世界を変えられるんだ」と、何故か不思議と、素直にそう思いました。

ですから、私には出来なくても、神様の偉大な御力ならば出来ると信じて、今も祈り求めています。

私は、信仰を持つまでに数多くの罪をも犯していますし、信仰を持ってからも兄弟姉妹の皆様方にご迷惑をお掛けしてしまった者です。

ですから、兄弟姉妹の皆様方の中でも底辺な者と言えます。

私の願いとしましては、聖三位とRAPTさん、十二弟子の皆様方、そして全ての兄弟姉妹の皆様方がどこまでも光輝き、栄光を受けられる世界、その礎を築いていけたらと思う次第です。

その様に思うのも、私の弱点欠点がある故です。

私は、プライドが高く、高慢、傲慢な人間で、すぐに人を見下してしまう根深い罪の根があります。

だからこそ、聖地東京都庁で本当の姉妹の方に、ご迷惑をお掛けしてしまったものと思っております。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

ですから、その根深い罪故に、その様にしなければ、兄弟姉妹の皆様方に再度ご迷惑をお掛けしてしまう事になり、罪に罪を重ねてしまいます。

また、今の時代を生きている私たちだけでなく、後の1000年を生きる子孫の皆様方が、神様とどこまでも愛を成す世界の礎をも築いていけたらとも考えています。

そう考えた時、私は神様の御国を建国するイメージが湧き、だからこそ私は、「シムシティ」や「ザ・コンビニ」、「A列車で行こう」と言った街づくりや経営シミュレーションゲームが好きだったのかなとも思いました。

ゲームでも好きだったのに、ましてや神様の御国をこの地上世界で建国出来るとしたら、こんなに嬉しい事はありません。

私に何が出来るかは分かりませんが、神様の御国を建国する為ならば何でも出来るものとなれます様に、常に神様に祈り求めて、偉大な大使徒パウロの様に命すらも惜しむ事なく、神様の御心をどこまでも成していけるものとなれます様に、引き続き努力して参ります。

実は、ちょうど昨日に聖書の通読を終える事が出来ました。

昨日に聖書の通読を終えられる様に、神様がお導き下さっていたのではないかと、今この記事を書いていて思う次第です。

もっと聖書と御言葉をたくさん読んで、聞いて、サタンが入り込む余地も無い程に頭の中を神様の御言葉で埋め尽くしていきたいと思います。

神様の御言葉にもっと従い通せるものとなれます様に、そして、神様の御国建国の為にお役に立てるものとなれます様に、日々成長し、日々変化し、日々進化し続けていけるものとなれます様に、これからも引き続き努力して参ります。

私事で大変恐縮ではございますが、今回の記事をご覧になって頂いた一人でも多くの方に、神様の事を知って頂き、神様の存在を確信して頂けるきっかけとなりましたら幸いです。

こちらの記事も宜しければご覧ください。

話をトランペットに戻しますが、かの有名なトランペット奏者もイルミナティと関わっている事が判明致しました。

その人物が、「チェット・ベイカー」という人物です。

チェット・ベイカー(出典はこちら

チェット・ベイカーはトランペット奏者ですが、ヘロイン中毒者でもありました。

1950年代半ばにおいては時代の寵児とも目され、マイルス・デイヴィスをも凌ぐ人気を誇っていたが、1950年代後半から1960年代にかけてヘロインに耽溺し、ドラッグ絡みのトラブルを頻繁に起こすように。米国や公演先のイタリアなど複数の国で逮捕され、短期間であるが服役もしている。1970年にはドラッグが原因の喧嘩で前歯を折られ、演奏活動の休業を余儀なくされた。

出典:チェット・ベイカー – Wikipedia

ご覧の様に、麻薬絡みのトラブルを起こしている程の中毒者です。

麻薬と言えば悪魔崇拝へと繋がります。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

麻薬中毒であったチェット・ベイカーですが、不審な死を遂げています。

1988年5月13日、オランダ、アムステルダムのホテルの窓から転落死、原因は定かではない。

ドキュメンタリー映画「Let’s Get Lost」は彼の死後まもなく封切られ、アカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされた。

出典:チェット・ベイカー – Wikipedia

アムステルダムのホテルの窓から転落死という事になっており、転落死の原因は不明とされています。

そして、彼の死後に彼のドキュメンタリー映画「Let’s Get Lost」が、アカデミー賞にノミネートされてもいます。

つまり、彼の死は映画化における生贄であった可能性が高いと考えられます。

映画を撮影するまでは生かし、撮影後は生贄として悪魔崇拝における儀式殺人(あるいは暗殺)を行っては、その死を大々的に報道します。

その死と相まって、ドキュメンタリー映画を公開する事で世の人々を煽動しては、映画の興行収入を通して、ボロ儲けしているのです。

この様に、イルミナティは有名人や著名人を殺しては、その死を利用して私腹を肥やしています。

また、イルミナティは生贄とした人物の名前などを形に残そうとします。

もしかすると、イルミナティ同士の間で生贄にした人物を告知している意味もあるのかもしれません。

実際に、デヴィ夫人も生贄にした弟の名を宮殿に付けています。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

とにかく、イルミナティは人間の命を軽く考え、ただの金儲けの道具としか思っていません。

私たち庶民の事も、ただ税金を吸い上げる為だけに存在しているとしか見ていません。

安倍晋三が、実際にその様な発言をしています。

下記ツイートをご覧ください。

ご覧の様に、国民の事など微塵も考えていません。

また、安倍晋三は日本を支配している李家です。

下記動画をご覧ください。

李家はイルミナティ13血流の内の一つです。(詳細は下記リンクをご覧ください。)

ですから、税収は国民から吸い上げた物と考えているイルミナティを全て滅ぼさなければ、私たち庶民が安心して暮らせる世界にはなりません。

実際にイルミナティは、コロナワクチンを通して人口削減計画を進めています。

下記ツイートをご覧ください。

人口削減計画の存在がしている事自体、イルミナティが私たち庶民の命を軽く考えている事の証拠とも言えます。

ですから、イルミナティにとって有名人や著名人を殺したり、身内をサタンの生贄にする事くらい、造作もない事です。

再度、チェット・ベイカーに話を戻しますが、チェット・ベイカーにまつわるとある映画にて、チェット・ベイカーがサタン(悪魔)と契約している事を公にしていました。

その映画が、「マイ・フーリッシュ・ハート」という映画です。

予告編がありましたので、下記の動画をご覧ください。

55秒頃には、十字架が不自然に映っています。

1:10頃には、「悪魔と取引した」

1:40頃には、「愛という名の悪魔もいる」

十字架は、キリストを磔にした事を象徴する事になりますから、悪魔崇拝のシンボルその物です。

そして、「悪魔と取引」したと言うのは、そのままの意味です。

サタン(悪魔)と悪魔崇拝儀式を通して契約し、イルミナティの一員になった事を意味しています。

「愛という名の悪魔もいる」というのは、「愛の神」である聖書の神様を「悪魔」だとして、神様の事を侮辱している意味になります。

予告編だけでも、神様への反逆を表すイルミナティサインが散りばめられています。

ですから、チェット・ベイカーは間違いなくイルミナティ(悪魔崇拝者)と言えます。

世界一のトランペット奏者と持て囃されてはいますが、サタン(悪魔)と契約して得た力なのでしょう。

しかし、サタン(悪魔)と契約した結果、最後はホテルの窓から転落死という形で暗殺あるいは生贄とされています。

果たしてその様な人生が本当に幸せと言えるのでしょうか?

サタン(悪魔)と契約して富や名誉を受けても、その代償として支払いきれない代償を背負い、最終的にはその代償を要求されるが為に、ほぼ全員が寿命を全うする事なく死んでいます。

サタン(悪魔)との契約は、正に地獄行きが確定している片道切符に過ぎません。

その様な契約をしているのがイルミナティ(悪魔崇拝者)です。

イルミナティ(悪魔崇拝者)は、富や名誉を得る事が幸せであると、私たち庶民を洗脳し騙してきました。

しかし、神様の御言葉に従い条件を立てる事で、天国にも行けますし、最初に条件を立てる訳ですから、サタン(悪魔)の様に後かから代償を要求されるという事もありません。

ですから、神様の御言葉に従って生きる事が、私たち人間にとって最も幸福であり、幸せになる為の唯一の道なのです。

今回の記事を通して、一人でも多くの方にこの事をご理解頂けましたら幸いです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

HAJIME